Archive for the ‘同窓生による連載記事’ category

ひろなか志づこの随筆「ふむるす・るぷるす」の第3回目「スイッチ」

5月 4th, 2010

ひろなか志づこさんによる連載随筆「ふむるす・るぷるす」の第3回目をお届けします。

肌寒い春の日が続いていましたが、やっと陽気が暖かくなってきました。本日の天気予報では、関東地方が今年初めての夏日になりそうだとか。

ビールが日に日においしく感じられる季節になってきました。

これは、すなわち、ひろなかさんがニコニコ笑顔で元気はつらつ仕事に、家事に、歌に、ダンスに、宴会にエネルギー全開になることを意味しているような気がします。その証拠に、先週、同窓会で、感謝状のデザインと制作をお願いしたのですが、仕上がった作品は、よくもまぁこんな手法が思いつくなぁと心底感心したものでした……。

同窓会はそろそろ会報誌の編集作業に入らなくてはなりませんが、全国各地の地ビールを、ひろなかさんにお届けしなきゃ、と考えています。

同窓生の皆さん、おすすめの地ビールがあったら、地ビールだけでなく、世界各国のおすすめビールがありましたら、ぜひ編集部までお知らせください。

 

それでは第3回目「スイッチ」、お読みください。

 

 

 

只今「サッポロ黒ラベル」に浸っております。

「日本の大企業ビールは無個性だ」と言われますが、それだけ「日本人好みの味」という証拠でもありましょう。

昨夜は岩手・盛岡の地ビール「ベアレン・クラシック」。

果実を焦がしたような香ばしさの上に重なってゆく苦味の層にうっとりです。

未成年の君は、20歳になってから体感してみてね。

 

 

さて、本題に入りましょう。

 

ある日あるFMラジオ番組で、某ファッションフォトグラファーのコメントが耳に入りました。

 

「中学生の頃に見た、松任谷由美の『ダイヤモンドが消えぬまに』のジャケットに魅かれました。

松任谷由実『ダイアモンドダストが消えぬまに』(EMIミュージック・ジャパン )

松任谷由実『ダイアモンドダストが消えぬまに』(EMIミュージック・ジャパン )

僕は、自分もこの中に入りたい!と思ったくらいです。」

 

そう!私もそうだった!!

 

私の場合は、やはりYMOです。

中学2年生の秋、運動会の応援合戦の準備をしていた教室の中で初めて聞いた「RYDEEN」に衝撃を受けて以来、

YMOは私の「神」になったわけですが、

彼らの写真集に記されていた交遊録を読みながら、

「あ~、私もこの輪に入りたひ~。(´▽`) 」と本気で思ったものです。

当時は、いわゆる「カタカナ職業」が注目を浴び始めていた頃。

その交遊録にはミュージシャン、グラフィックデザイナー、イラストレーター、エディター、スーパーバイザー、

コピーライター、アートディレクター、プロデューサー、フォトグラファー・・・といった「職種」が

華やかにキラキラと輝いて、誌面で踊っているように並んでいました。

 

中学1年生までの私の「なりたい職業」は「教師」でしたが

志望理由に「長期休暇がたくさんあるから」と掲げたら

「教師はそんな甘くないわぁ!!!!」と担任先生から激しく一喝され

(そこまで怒らなくても・・・というくらい叱られた。先生もきっと何かあったのでしょう)

以降「なりたい職業」の無い空白期間を過ごしました。

そんな折のYMOです。

彼らの関係者のカッコよさにクラクラし「この輪に入るにはカタカナ職業しかない!」と決意した次第です。

illust

 

そして現実は、

「YMOの輪に入る」だけが目的ですから、職種どころか進路すら決まるわけもない。

(中学の卒業文集では「将来の夢:文化人」)

高校3年の担任・加藤先生に叱られ、なおもふらふらしながら、結局、都内のデザイン専門学校に進学を決めました。

昔から絵を描いたりデザインめいたことをしたりすると、周囲に喜んでもらえていたので

「これがカタカナ職業への最短ナリ!」と思ったわけです。

 

「自分がなりたい職業」と「自分が周囲に対して貢献できること(喜んでもらえるもの)」・・・

すなわち「存在価値(意義)」を考えるスイッチを入れてくれたのは

「あのミュージシャンにお近づきになりたい。」というミーハーな下心のみ。

後で思い返すと、いやはや何が人生のスイッチになるのか、わかりませなんだ。

 

そういえば、ある著名人が

「漠然とでもいいから、自分がなりたいものを毎日思っていてごらん。

 そうすると、案外その方向に流れが出来るんだよ。」と言っておられました。

(だからと言って、音楽業界にコネが出来るかどうかは別)

 

新年度が始まって1ヶ月です。

現役の学生さんにとっては、これから将来のことを考えながら1年間過ごしていくことを求められますね。

もし、今、将来のビジョンを決められなくても、

日々出会った人を大切にして元気にすごしていれば、そのうち道が見えてくるというものです。

どうぞ、ご安心くださいませ。( ̄∇ ̄*)

(って、OGとして、また、中学生の親として、いいのか!?これで)

 

同窓会に係わるようになってから、

OB、OGの職業や活躍の場が多岐に渡っていることに、改めて驚いております。

お一人お一人の活躍を見聞きする度に、

「この人は、どういう経緯で今の仕事をしているんだろうか」とか

「何がスイッチになったのかな」などと興味が湧きます。

差し支えなかったら、ご自分のお仕事についてコメントにしていただけると嬉しいです。

 

おまけ:稲毛海岸駅前から新稲毛ガーデンタワーに向かう道筋。左側奥にはコミュニティセンター。

photo2

昔はスーパーフレックなど小規模な店が立ち並ぶ通りだったと記憶します。

 

 

 

 

 

 

 

執筆者紹介
 弘中志津子(現姓・鈴木志津子)
 第3回生。グラフィックデザイナー。編集者。
 高校1年生の夏休みに編入試験を受験。
 無事合格して2学期より稲毛高校生に。
 担任の先生は川崎健一先生。
 ドラム志望で「管弦楽部」に入部。パーカッションを担当。
 2年生の時の担任は大場利雄先生。
 文化祭に向けて、有志の演劇集団に参加。
 裏方として舞台美術らしき担当となる。
 3年生の時の担任は加藤正登先生。
 卒業を控えた11月になって進路希望が二転三転し加藤先生に激怒された思い出…。
 グラフィックデザインを学ぶため都内の美術専門学校へ進学。
 2年後、写真加工会社に就職。
 暗室作業に耐えられずホテル業へ転身。
 結婚するまでホテル業に従事した。
 専業主婦としてしばらく生活していたが、
 子どもの保護者会活動をきっかけに、
 そこでの出会いからデザインの仕事を本格的に開始する。平成14年頃です。
 現在、自宅で、編集やデザインの仕事にひっそりとたずさわっています。

宮崎かおりの南アフリカ最新情報「サオボーナ!」 第3回目「エアポート物語-ヨハネスブルグ 後篇」

4月 22nd, 2010

稲毛高校卒業生・在校生の皆さま

ブログをご覧の皆さま

 

 

 

 こんにちは。宮崎かおりです。第3回目の今回は「エアポート物語-ヨハネスブルグ 後篇」です。

 

 

 

 前篇を書き終えた次の日の火曜日に、私はまたこのタンザニア人一家と出会いました。

 私が空港を歩いていると、女性が走り寄ってきました。見るとあの彼女でした。そばには夫が子供を抱いて立っていました。月曜日のタンザニア行きのフライトに乗り遅れてしまい一晩空港で寝泊まりしたとのことでした。

「あなたにお願いがある」

 私はどんな内容か聞くことにしました。

「妹が今日タンザニアから送金してくれたが、パスポートをなくしてしまい、滞在許可証がないのでお金を下ろせなかった。あなたの名前で再度送金するよう妹に指示するので、あなたのパスポートと滞在許可証を銀行に持っていき、お金を下ろして主人に渡してほしい」

 赤ちゃんを連れて彼女は一足先に今日帰るので、送金されるお金を夫の帰国交通費に充てたいということでした。

 

 ふと、なんでこの人はパスポートをなくしたのだろう?という疑念が私の心によぎりましたがが、彼女の申し出を承諾しました。

 さっそく彼女が私の携帯を使ってタンザニアの妹に電話をしたところ、

「タンザニアから外国へ送金する場合はタンザニア人宛てにしか送金できない法律があるでしょ。それに、お金はもう送金してしまったわ……」

 と妹は言うのでした。

 

「ご主人のパスポートはどうしたの?」

「パスポートはありません。それと…、彼はタンザニア人ではない…」

 彼女はそう答えました。これで私の疑念は確実なものになりました。この人たちは“違法出稼ぎ外国人”だったのです。

 その瞬間、私は、彼らを助けたいという気分を一気に失ってしまいました。しかし、

「お願い、シスター。僕たちを町の銀行まで連れていって。そこでは滞在許可証がなくてもお金を引き出せるから」

 夫は執拗にお願いしてきました。お願いすればどうにかなると、当たり前のようにねだってくるのです。仮に私が町の銀行まで車で連れて行くとしましょう。運転中に襲われてしまうこともあるかもしれないと思いました。襲われて、車もお金も盗られてしまうかもしれない……という思いでいっぱいになりました。

「申し訳ないけれど、そのお願いはかなえてあげられない」

 

 彼らは大量の荷物を持っていたので、とりあえず、この日の飛行機に乗り遅れないようにチェックインしてもらうことにしました。私の心配は二人が連れている赤ちゃんのことだけです。母子が無事に帰るのを見届ければいい、と思いました。

 

 チェックインの手伝いをしている間、いつ南アフリカに来たのか彼女に聞いてみました。

「昨年の8月よ」

 彼女は答えました。8月にやってきたということは、その時すでに妊娠していたのです。タンザニアの友人に、南アフリカに行けば稼げるよ、と言われ、それを信じてやってきたそうです。

「信じてやってきたのに、仕事も、住む場所もなくて、いいことなんて、まったくなかったわ!」

 彼女はそう答えました。

 そのとき、私の同僚から仕事の電話がかかってきました。彼女たちに関わっていられなくなりました(正直逃げられる口実ができてほっとしました)。

「申し訳ないけど、私はまだ仕事中なの。今からまたオフィスに戻らなければいけない」

 そう告げると、夫が鋭い目線で私をにらみました。その目を見て、『この人はタンザニアに帰るためだったら、お金欲しさに犯罪を起こすかもしれない。そしてそのまま国外へ逃げるな』と私は思いました。

 

 このあとの二人のことはわかりません。

 でも確実に言えるのは、二人は南アフリカに観光ビザで入国し、ビザの期限が切れたのち、自分たちでパスポートを意図的に処分し、違法に滞在していたということです。帰国したくなったときは大使館に行って、パスポートを紛失したと嘘の申告をすればいいのだと彼らは信じ込んでいます。紛失した理由や経緯など、それなりの尋問はあるかとは思いますが、嘘の申告をしたほうが南アフリカの法務局に捕まるよりはましなのです。罪を犯しても、帰国してしまうか、南アフリカの国外に逃げてしまえば、捕まるリスクは低いということを違法滞在者たちは知っているのです。

 

 親切心から始まった人助けが、こんな結末を迎えてしまったのは残念でした。

 

 それでは次回までサラガーシェ。

宮崎かおりの南アフリカ最新情報「サオボーナ!」 第2回目「エアポート物語-ヨハネスブルグ 前篇」

4月 16th, 2010

宮崎かおりさんの南アフリカ最新事情「サオボーナ!」の第2回目をお届けします。

人種のるつぼという言葉がありますが、南アフリカ共和国はサッカーワールドカップを目前に控えて、多くの人たちが集まってきているようです。ターゲットは「お金」です。お金に群がろうとする人、人、人。

空港という出会いと別れの場で、宮崎さんがどんな仕事をしているのか、今回の記事を読んで、少しだけ垣間見ることができます。

 

 

稲毛高校卒業生・在校生の皆さま

ブログをご覧の皆さま

 

 

 

 こんにちは。宮崎かおりです。第2回目のテーマは「エアポート物語-ヨハネスブルグ 前篇」です。

 

 今回はエアポート物語。国際空港では、久しぶりの再会や旅立ちの涙など様々な光景を目にします。アフリカの現状を目の当たりにさせられたストーリーをお伝えします。

 

 

 

 

 先週の金曜日、生後3週間の赤ちゃんを連れた黒人の夫婦に空港のベンチで出会いました。

 

 ケープタウンから来た彼らは、ヨハネスブルグで出迎えの男を6時間以上待っていると言います。

 

 子連れで長時間待っている姿が気の毒だったので、

「その出迎えの男に連絡は取ったのですか」

 と質問をしました。

「午前中は携帯電話がつながったが、午後からは電源を切られたようで連絡不通になっている」

 と夫婦は言い、他にあてのない2人は、

「ただその男を信用して、待っているしかない」

 と不安そうな表情で答えました。

 

 もしかしたらこの夫婦は嘘をついているかもしれないし、あまり簡単に関わるべきではないので、本来ならば放っておくのですが、生後3週間の赤ちゃんの顔を見ていると、そのままにしておくわけにはいきませんでした。

 

 さらに事情を詳しく聞くことにしました。

 

 2人はタンザニア出身のタンザニア人で、これから本国へ帰国するところだといいます。しかし、赤ちゃんのパスポートがないので、プレトリア(南アフリカの行政の首都)にある在南ア・タンザニア大使館に渡航証明書類を受け取りに行ってから帰国しようとしていました。夫婦が待っている出迎えの男は、無料で彼らを大使館へ連れていき、再度空港まで送り返すことを約束してくれていたのだそうです。

 ところが、ケープタウンからヨハネスブルグまでのフライトが3時間も遅れ、到着したときに出迎えの男の姿はなかったのだそうです。連絡をとろうにも相手の携帯電話が不通になってしまったのだそうです。

 

 男を信用していた夫婦は、渡航証明書類の代金とわずかなタクシー代しか持ち合わせていません。所持金ではプレトリアに行くこともできないのです。仕方なくただただ6時間以上も待ち続けていたのです。

 

 不運なことにこの日は金曜日。すでに時刻は18時を回っていました。大使館はもう業務を終えています。次に大使館の扉が開くのは月曜日の朝ということになります。すべての荷物をスーツケースに詰め、ケープタウンの借家を出てきてしまった夫婦にはもう戻る場所がありませんでした。月曜日までの3日間ヨハネスブルグで寝泊まりする以外に選択肢がないのです…。

 

 夫婦の話がすべて本当ならば、無知な彼らは、その出迎えの男にだまされていたことになります。

 

 かわいそうな親子を見かねた私の白人の女性の同僚が、そのあと必死で教会や知人宅に彼らを宿泊させてくれないかと聞き回りましたが、どこも受け入れてはくれません。結局私の同僚は自宅に2晩泊めさせることにし、最後の1晩は安宿を手配することにしました。同僚に少しでも協力しようと、私も、赤ちゃんのミルクやおむつ代の足しになるよう、ほんの気持ちを渡しました。財布からお金を自然にとりだしましたが、気持ちは複雑でした。起こった現実にショックを受けていたのかもしれません。

 

 月曜日。今日は彼らが帰国する日です。

「うまく渡航証明書類が取得できたら、妻と子は飛行機に乗せます」

「え? 一緒に帰国しないのですか?」

「はい。私はバスで帰ります。タンザニアへは5日間かかりますが、仕方ありません」

 そう夫が言った。

 

 私が出会ったこの子連れの夫婦は、おそらくタンザニアから南アフリカに出稼ぎに来ていたのでしょう。出稼ぎに来て、妻は妊娠し、出産したように思います。このまま南アフリカにいても生活していけないと判断したのか、十分なお金もないままタンザニアへ戻ることを決めたのだと思います。

 

 わざわざ出稼ぎにきたのに、充分に稼ぐこともできずに帰国するときに全くお金を持っていない彼らは、出稼ぎ外国人として超低賃金で働かされていたのだと思います。

 

 ワールドカップの開催は、近隣諸国に、いたずらに幻想を抱かせているのかもしれません。世界規模の大会を開催するにあたり、インフラ整備に伴う建設業や観光業における労働需要は高まっており内需の拡大も進んでいるのは事実です。しかしそれらは富裕層に限って言えることであって、大量の貧困層における失業率は25%を超えているのが現状なのです。

 

 周辺の国々では、南アフリカに出稼ぎに行けさえすれば…と安直に希望を抱く人が無数にいますが、国内の失業問題を解決していない現状では、海外からの出稼ぎ労働者にとって、希望あふれる国とは言えないのです。

 

 

 最後に残されたお金。生後まもないわが子と妻を飛行機で帰国させることが夫にできる精一杯の愛情だったのかもしれません。この親子3人がタンザニアに無事に帰国してくれることを願うしかありませんでした。

 

 後篇につづきます!

 

 

 それでは次回までサラガーシェ。

ひろなか志づこの随筆「ふむるす・るぷるす」の第2回目「コロッケとマック」

4月 5th, 2010

  ひろなか志づこさんによる連載随筆「ふむるす・るぷるす」の第2回目をお届けします。

 「ふむるす・るぷるす」ってビールのホップのことじゃない?と言い当てた人がいました。同窓会の運営スタッフの一人Yさんで、ビールは苦手だけど日本酒が大好きな女性スタッフでした。第1回目に掲載されたひろなかさんのイラストを見て「私の似顔絵を描いてもらえないかしら」とも言っていました。今回の原稿にもイラストが登場します。よかったですね、Yさん。

 

 今回の文章中に貴重な証言が出てきます。私も創立30周年記念誌を読んで「アレ、ちょっと違うぞ!」と思った箇所をひろなかさんが今回この随筆で指摘し訂正されています。実は、高校1年の3学期、2年に上がる直前の春休みだったかなぁ、千葉県文化会館で行なわれた演奏会かコンクールでの演奏で、私、小太鼓の担当として飛び入り参加し、間違えずに、テンポも狂わずに『アルルの女』の64小節を独奏したのでした。懐かしい思い出です。その後、ひろなかさんがパーカッションの担当になったなんて今回初めて知りました。なにかのご縁が続いているのですねぇ。

 

 それでは第1回目コロッケとマック」、お読みください。

 

 

 

 4月です。只今KIRIN 一番絞り満喫中です。

 春になると、日本のすたんだーどな味わいが益々美味しく感じられます。

 (未成年の君たちは二十歳まで我慢してね)

 

 4月早々の夕刻。

 古い友人から、

「結婚します。詳細は後程」

 というメールが届きました。

「おめでとう。お前様もとうとうか」

 と、心の奥でつぶやき、

「結婚式は何を着ていこう」

 などと考えておりましたら、再度着信が。

「エイプリルフールだね。一度、言ってみたかったんだよな~」

 という脳天気なメールに某(それがし)、危うく大切なケータイを床に叩き付けてしまうところでした。

 

 ともあれ、エイプリルフール当日は快晴。そして桜が開花し始めた日。春の青空と桜に免じて、このアホアホな友人を許すことといたしましょう。

ジャスコマリンピア店周囲の桜と空

ジャスコマリンピア店周囲の桜と空

 

 

 

 さて、私が高校生だった四半世紀前に比べると、高洲エリアも大きく変貌しまして、ご存知の方も多いとは思いますが、とにかくマンションが増えました。

 現在ジャスコマリンピア店の向かいに建つベイマーク(高層マンション2棟、中層マンション2棟)は、当時、砂利が敷き詰められた駐輪場だったと記憶しています。

 

こんな街並みになって早10数年。

こんな街並みになって早10数年。

 

 

 話が逸れますが、高校時代の部活は「管弦楽部(オケ)」です。

 私が入部した高1の冬には既に、吹奏楽部(ブラバン)とオケに分かれておりました。先日発行された30周年記念誌には「以来20数年に渡って管・打楽器のない『管弦楽部』を名乗っていた」と記されていますが、少なくとも私が在校しておった間は、少人数ながらフルート、トランペット、トロンボーン、パーカッション担当が居ましたのよ。現に私はパーカッションでしたし。

 

 と、修正申し上げてスッキリしたところで話を戻しましょう。

 

 授業が終わった土曜日の午後。

 練習前の昼食時、ちょくちょく買出しに行っていたのが高浜の稲浜ショップです。

 あの頃、ここの肉屋のコロッケが部員達のお気に入りで、1個70円か80円くらいだったかな……。安価ですが、すこぶる美味しい!

 お店の人にお願いすれば、ソースもかけてくれたと記憶していますが、いかがでしょう。

 (私の記憶が違っていたら、コメントでどうぞ訂正お願いいたします)

 

 ホックホクのコロッケを買ってきて、音楽室奥の練習室でみんなして食べていたのを覚えています。

 現在の稲浜ショップは、当時と差ほど変わっていません。書店、酒屋など、当時からずっと営業を続けているお店も残っています。でも、八百屋、魚屋、肉屋、スーパーなどは入れ替わりが激しくて、今ではその肉屋も数代前のこととなりました。

 入れ替わりが激しいと言えば、現在マリンピア専門館のある交差点周辺もそうですね。

 (最近、デニーズが撤退しローソンになりましたし)

マリンピア専門館のある交差点周辺

マリンピア専門館のある交差点周辺

 マリンピア専門館になる前は、ダイエー系のDマートだったかと。Dマートの前には何が入っていたかまで覚えておりませんが、現在、サンジェルマンというパン屋のあたりにマクドナルドがあったと思います。ここはフロアがL字だったと記憶しています。

 

 そういえば……、そういえば、この店でひとつ、トラウマを作ってしまったのでした……。

  多分、2年生の夏休み。部活の帰り道。

 先輩方数人と、このマックに立ち寄り、いつものように緩い会話を楽しんでおりました。

 そんな最中、突然、私の90cm目前にこんな光景が。

異様に頭のデカいビッグマックポリス、笑顔メイクの奥に垣間見える「不機嫌」が怖いドナルド、重くて辛そうなのに前歯を出して笑っている小柄なハンバーグラー

異様に頭のデカいビッグマックポリス、笑顔メイクの奥に垣間見える「不機嫌」が怖いドナルド、重くて辛そうなのに前歯を出して笑っている小柄なハンバーグラー

 見てはいけないものを見てしまった……。

 私は彼らが視界から消えるまで、呼吸が止まってしまいました。

 

 それ以来、ディズニーランドのミッキーすら拒絶してしまうカラダになってしまったのは言うまでもありません。(つづく)

 

 

 

執筆者紹介
 弘中志津子(現姓・鈴木志津子)
 第3回生。グラフィックデザイナー。編集者。
 高校1年生の夏休みに編入試験を受験。
 無事合格して2学期より稲毛高校生に。
 担任の先生は川崎健一先生。
 ドラム志望で「管弦楽部」に入部。パーカッションを担当。
 2年生の時の担任は大場利雄先生。
 文化祭に向けて、有志の演劇集団に参加。
 裏方として舞台美術らしき担当となる。
 3年生の時の担任は加藤正登先生。
 卒業を控えた11月になって進路希望が二転三転し加藤先生に激怒された思い出…。
 グラフィックデザインを学ぶため都内の美術専門学校へ進学。
 2年後、写真加工会社に就職。
 暗室作業に耐えられずホテル業へ転身。
 結婚するまでホテル業に従事した。
 専業主婦としてしばらく生活していたが、
 子どもの保護者会活動をきっかけに、
 そこでの出会いからデザインの仕事を本格的に開始する。平成14年頃です。
 現在、自宅で、編集やデザインの仕事にひっそりとたずさわっています。

宮川文吾の「笑える話・笑えない話」第2話

3月 22nd, 2010

宮川文吾の「笑える話・笑えない話」第2話をお届けします。

 

稲毛高校同窓会の皆様
稲毛高校在学中の皆様
関係者の皆様
通りすがりの皆様

 

こんにちは。第12回生で国際教養科第1回生の宮川文吾です。
第2回目の今回は、私が入学した当初の思い出話でも。なにィ!

 

 
20年前、普通科のみで構成されておりました稲毛高校に「国際教養科」という、何とも魅力的なネーミングの学科が創設されることになりました。
当時、中学校3年生だった筆者は、そのなんともいえない魅力に引き込まれ、担任のY先生にお願いをし、推薦試験を受験させてもらったのです。

「宮川、お前、体育祭応援団長だったよな?」
「はい、そうです」
「で、応援団長として優勝に貢献した…」
「いや、先生。たしか俺の紅組は6チーム中でビリだったんじゃ…」
「いや、応援団長として優勝に貢献したんだよ。だって、内申書にそう書いちゃったんだから。お前、面接で聞かれたらそう答えろよ」
「……はい。先生ありがとう」
「それから、内申書の中身、本人にバラしたら、俺、減給になっちゃうから、絶対に内緒な」
「……はい。先生ありがとう」
すまん、Y先生。バラした。今。
ところが、推薦試験当日。
稲毛高校に集まった受験生は、300名以上(たしか)。
倍率数十倍でございます。

(ああ、みんなかわいそうだなぁ……)
なんだか切なくなる俺。
だって、かわいそうじゃない。上には上がいるってこと、知らないで来ちゃったんだよ。……俺もだったんだけど。
中学の担任Y先生の努力も、すべて無駄にしてしまったのです。

(こんなはずはない。俺は“やれば、できる子”と言われ続けて、もう12年だ)
「……はっ! ということは今まで一度もやらなかったということか!?」
小学校以来、一度も“やらなかった”筆者は、忘れもしない、1月26日推薦試験合格発表の日、不合格と同時に、大事なことに気づかされた日でもあるのでした。

 

 

 

ところで、推薦試験を受けるまで、「国際教養科」っていうやつは、こんなに男女比に差が出るとは微塵も考えたことはありませんでした。
1期生の宿命というものなのか。“何をする学科”なのかも分からなければ、“こんなに女子の多い幸せな学科”なのだということも知りませんでしたし、
“女子が多いっていうのは決して幸せなことではない”という世の中の真理も知りませんでした。この辺は後日。
一般受験当日、男子で受験会場にやってきたのはわずか7名。
先に3名の男子が推薦で合格していましたので、
(ほほう。全員合格して10名か。仮に40人クラスだとして、全員合格でも1/4。じゃあ、そこそこの点数でも学校はバランスを考えて、合格にしてくれるだろう。いひひ…)などとイヤラシイことを考え、
ほくそ笑みながら問題を解いておりましたことを思い出します。
ああ、いい思い出。青春ですね。
学校側に下心を悟られることもなく、一般受験は無事に合格。
結局、男子9名女子33名の合計42名でスタートした国際教養科1期生なのでした。

 

 

さて、入学式当日。
自分たちが第1期生ということで、状況がよく分からず学校までたどり着いてしまった私と、同じ学校から同じ教養科に入学した友人K。

ドキドキしながらチャリンコで登校すると、朝、校門で新入生にプリントを配る先生方発見。
どうやら、下駄箱の場所から、教室の位置、今後の予定などが載っているプリントのよう。
「国際教養科の方はおっしゃってくださーい!」
「あ、僕たち、教養科ですけども」
「おおおっ、じゃこれ」
配られたプリントはなんと英文一色。
下駄箱の場所がよくわからないんですけど……。
「しゃれキツイなー」
友人Kに強ばった表情で語りかける私。
「なー」
言葉少なく、やはり表情が強ばり気味の友人K。
まさか、英文のプリントがお出迎えしてくれるとは……。
友人Kとなんとかかんとか、教室までたどり着いた私たち。教室に入って再び焦る…。
だって、黒板に、今日の行動スケジュールが英文で書いてあるんですもの。
教室中の掲示物はすべて英文。
校訓「真摯・明朗・高潔」も、英文。
席順も英文で書いてある。が、これは自分の名前がローマ字で書いてあるだけなので、問題なし。
「へへん、ばかにしやがって。自分の名前くらい英語で書けらい!」(←あたりまえだ!)

 

席に着き、辺りを見渡すと、余裕そうな顔と泣きそうな顔の半々といったところか。
しっかし、女の子多いな。ムフフ。推薦で男子校行かなくて良かった。
男子が9人に、女子が33人ということは……。卒業までに3.6人の女子と付き合える計算だな。うん。文系なのに計算はやい。

 

「おーい。宮川~」
ふと教室の入り口を見ると、同じ中学の先輩が2人顔をのぞかせているではありませんか。
おお、懐かしい! 先輩。お元気ですか?
「しっかし、お前のクラス、すっげぇなぁ~」
「はい……。正直ちょっとビビってます……。まさか担任、金髪じゃないでしょうね? 泣きそうなんですけど……」
「始業式の時に、担任紹介があったけど、たしかすっげぇガタイのいい男の先生だったよ。天龍源一郎似の。体育科じゃねぇの?」
「……そっか。天龍か。じゃあ大丈夫だな」
「お、じゃあ時間だから戻るわ。頑張れよ」
「はい。先輩、ありがとう」
「あ、それから部活は水泳部な」
「……、はい……」

 
キーンコーンカーンコーンと始業のベルが鳴る。
しーんと静まりかえる教室。
廊下を歩いてくる人の足音。

だんだん近づいてくる。

担任だ。
ガラリ(←ドアを開ける音)

 
教室へ入ってきた先生は、情報通り、男性だった。
その姿は、桑田圭佑?
いや、やっぱりプロレスの天龍源一郎にそっくりだ。

ご存じない方のために、天龍とはこんな方↓

天龍源一郎著『七勝八敗で生きよ』 東邦出版から好評発売中!

天龍源一郎著『七勝八敗で生きよ』 東邦出版から好評発売中!

こちらが奥山慎一先生ご本人(「20周年記念誌」より転載)

こちらが奥山慎一先生ご本人(「20周年記念誌」より転載)

ごつい。
でかい。
こいつは、やはり体育の先生だ。
間違いない。
いや、しかしこの体格は、ある意味、外国人さんより怖いかも。
ま、いずれにせよ日本人だった。よかった。よかった。
友人Kと目でアイコンタクト。
いきなり外国人の担任が来たって、俺ら英語あんまりわからんもんなぁ~。
「ぐっもーにんぐ、えぶりばてぃ!」
椅子から転げ落ちるかと思いました。吉本新喜劇バリに。
天龍が英語しゃべっとる!
天龍が英語しゃべっとる!!
天龍が英語しゃべっとる!!!

その後、天龍先生は、英語で自己紹介と本日のスケジュールを説明し、最後に、
「しーゆーあっとじむねいじむ」
と言い残して教室を去っていかれました……。
それが、生涯の大恩師となる奥山慎一先生との初対面の様子でした。

 

 

 

こうして、私の高校3年間は、ホームルームのすべては英語。英語の授業もほぼ英語と、英語漬けとなるのでした。
いやいや、英語がわからんから英語習いに来たのに、英語で授業したら意味ないじゃん!
って、思ったところで、口に出して言えるわけもなく、日本語しゃべったら、10円のペナルティが発生する語学合宿も体験。

 

あやしいよー。見るからに日本人なのに、英語でしゃべってる高校生軍団。
しかも、しゃべってる人間が限られてるし。英語に自信のない奴は、そりゃあんまりしゃべれないよね。
当時、千葉テレビの取材機会も非常に多く、休み時間の会話を英語でしている怪しい日常風景も撮影していきました。この辺、ヤラセ……。演出ですけどね。いくらなんでも、休み時間まで友人同士英語でっていうことはないです。

 

いや、まぁそれぐらい徹底してやろうとしていたクラスだったんです。どのくらい徹底していたかというと、保護者会まで英語でやろうとしていたくらいですから。
(これはその日のうちに撤回されました。保護者が、ちょっと引いていたようです。そりゃそうだ)

 
執筆者紹介
 宮川 文吾(みやがわ ぶんご)
 1974年11月10日生まれ。
 演出家。脚本家。
 吉本興業「よしもとクリエイティブカレッジ」2期生
 主に音楽アーティストのコンサートステージ演出を担当。毎年全国ツアーで忙しい。
 フジテレビ「お台場冒険王『ウォーターボーイズショー』」演出プロデューサー。他イベントも多数手がける。
 ACC CMコンクール「ラジオCM脚本部門大賞」受賞をはじめ、数々の舞台・CMの脚本において脚本賞を受賞。
 代表作には、大塚製薬「ポカリスエット」(ラジオCM)、「ポカリスエットステビア」(ラジオCM)など。

山崎陽一郎のフォトエッセイ「原色稲毛高校大図鑑」 第1回目

3月 17th, 2010

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こんな写真を同窓会のブログで紹介してみたかったのです。陽一郎クン、ありがとう!

同窓生によるブログの連載の4人目は、第1回生の山崎陽一郎さんです。

 

文章を書くのが苦手だから、と固辞されつづけましたが、
編集長としては諦めるわけにはいきませんでした。
山崎陽一郎さんの陰翳世界を一人でも多くの人に知ってほしかったのです。

 

彼のやさしい視線やあたたかな目線は、
その作品をみる者の心を穏やかに、和やかに、すべやかにします。

 

人は意外と同じ角度からしか対象をみていないものです。
彼が切り抜いた世界に思わずはっとさせられることでしょう。

よく知っているはずの母校の知られざる一面に出会えて、
なんとなく、わけもなく、母校を訪ねたくなってくだされれば……。

 

彼とのメールのやりとりの中で
「こんな形でしか表現できないことを後悔しつつも、何も書かないことはできなかった」
という文章で締めくくられているときがありました。
文章を書くのが苦手だという表現者・山崎陽一郎が、
どんな写真に、どんな思いを書き綴ってくるのか、大いに興味があります。
乞うご期待なのであります。

 

それでは山崎陽一郎さんのフォトエッセイ「原色稲毛高校大図鑑」の第1回目をお楽しみください。 

 

 

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卒業以来四半世紀以上、
千葉市内に住み、
母校の前を通り過ぎながらも、校内に立ち入ることはもちろん、恩師との交流もまったく無く、
数人の同窓生との付き合いを別にすれば、
稲毛高校に第1回生として在籍した事実は、
しまいこんだ卒業アルバムで確認するのみという状況が続いていた。

 

 

ご縁というものは不思議なもので、そんな自分が、
偶然母校の宇梶静江氏の講演にかかわったり、
偶然再会した後輩の依頼で同窓会の手伝いをさせてもらったり、
そして今こうして母校のブログに記事を書かせてもらったりしている。

 

 

 

 

 

写真を撮ることを生業のひとつとしていることでそのような機会にめぐり合えたのだが、
文章を書くことは、学生のころから変わらず苦手で、
安易に引き受けてしまったことを少々後悔したりもした。

 

すでに連載がスタートしている卒業生の方々のように饒舌でもなく、
文章で思いを伝えることは難しいかもしれないが、
その分、現在の母校やその周辺の写真が、
皆さんの記憶を呼び起こし、懐かしんでいただけるきっかけになればと願う。

 

連載第1回目に発表する写真は、
2007年7月14日、飛翔祭にうかがった際に撮影したもの。

 

十数年ぶりに校門を入り、
記憶の中よりもだいぶ旧くなった校舎を感じつつも、
変わらない玄関、廊下、体育館に、
長い時の流れを一気に遡り、
時間の感覚が麻痺してしまった。

 

ひとしきり校舎を巡った後、
正面玄関近くの階段から外を眺めると、
校舎の高さほどに育った樹木が視界を覆う。
その姿にふとわれに返り、
無理やり現代に引き戻されたような感覚を味わった。

 

校舎を離れ、
写真を整理していても、
同じ風景の中に在学中の記憶との不可解なずれを拭い去ることはできなかった。

 

 

 

 

 

最後に、この場を借りて、このような機会を用意していただいた稲毛高校同窓会活性化プロジェクトの皆さんと関係各位に御礼を申し上げ、連載第1回目を終わらせていただく。

 

 

プロフィール
山崎 陽一郎(やまざき よういちろう)
第1回生。
フォトグラファー。
東京デザイナー学院インテリアデザイン科に進学。
卒業後数年間、音楽関係の仕事にたずさわるも、建築業界に入る。
1999年、トータルクリエイティブオフィス「cool jam design」を立ち上げ、
ショップデザイン、ウェブ製作、写真撮影などを柱に多才ぶりを発揮している。

宮崎かおりの南アフリカ最新情報「サオボーナ!」 第1回目「虹の国」

2月 26th, 2010

 新連載の3人目は第20回生の宮崎かおりさんです。

「縁は奇なり」ということばがありますが、宮崎さんとのご縁はまさに奇なるものでした。

 私の中学時代の同級生が青年海外協力隊のコーディネーターとして南アフリカ共和国に赴任しているのですが、その彼から「一緒に働いてもらっている日本人のなかに稲毛高校の卒業生がいるんだけど…」というメールをもらったことから宮崎さんとのやりとりが始まりました。そのやりとりから、ブログでの連載をお願いしたのです。

 

 ちなみに私も同窓会の役員も宮崎さんとはお目にかかったことはありません。電子メールだけのやりとりです。インターネットのおかげで国境を越えて、稲毛高校の同窓生たちと生の情報がやり取りできる…。すばらしいことだと思いませんか。

 

 この連載は、南アフリカ共和国からの、文字通り、最新の、生の情報、ということになります。

 今年は、ちょうどサッカー・ワールドカップが開催される予定です。

 また今クリント・イーストウッド監督の『インビクタス 負けざる者たち』という、マンデラ大統領になった直後の南アフリカ共和国を描いた映画も公開中です(ぜひご覧ください!編集長・足澤が自信を持っておススメします!)。

 なんとタイムリーな連載のスタートでしょうか。まさに「稲毛高校の同窓生は地球上のいたるところで活躍している」ということが実感できる好企画のはじまりです。

 宮崎かおりさんの連載のタイトルは「サオボーナ!」にしました。ズールー語で「こんにちは」という意味だそうです。

 連載が続き、いつの日か、稲毛高校に在籍している高校生や中学生から宮崎さんに質問コメントが寄せられる日がくることを、編集部一同、待っています。

 

 それでは宮崎かおりさんの南アフリカ最新情報 第1回目「虹の国」をお読みください。

 

 

 

旦那と息子と私.jpg

ご主人のムトゥトゥゼリさん、生後7か月のアヤンダ・一郎くんと

稲毛高校卒業生の皆さま
在校生の皆さま
ブログをご覧の皆さま

 

 はじめまして。

 

 私は2001年に国際教養科を卒業いたしました。現在は南アフリカのヨハネスブルグに住んでいます。
 何をしているかと申しますと、現地のツアー会社に勤めており、ヨハネスブルグにあるOR Tambo(オー・アール タンボ)国際空港で毎日海外からのお客様のアテンドをしています。
 このブログを通して、今年開催されるFIFAワールドカップ南アフリカ大会のことや、南アフリカに関しての情報をお伝えしていきたいと思います。

 

 

 
 第1回目のテーマは“虹の国”です。

 
 南アフリカは俗に“レインボーネイション(虹の国)”と呼ばれることがあります。
 アパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策が廃止された後、いろいろな人種、文化、民族、言語などがひとつになって南アフリカ共和国が誕生したということに由来しています。
 肌の色も、民族衣装の色も、みんなカラフル。そんなカラフルな南アフリカについてひとつひとつ私がご紹介していきます。

 
 南アフリカには11の公用語があります。
 9つのアフリカ言語と、オランダ語から変形したアフリカーンス語と、英語とで、合計11言語になります。
 11の言語のなかで主に使われるのが、黒人言語のズールー語、アフリカーンス語、英語の3言語です。
 黒人同志で使われるのがズールー語。白人同志ではアフリカーンス語。様々な人種が一緒になると英語を使う、といったふうに使い分けています。
 学生時代は「英語ができれば…」なんて思っていましたが、ここの国の人は2つの言語や3つの言語が使えるのは当たり前のこと。黒人ですと6言語以上の言葉がわかる人が大勢います。

 

空港で働いているせいか、よく
「言語はいくつしゃべれるの?」
と質問されます。その時に
「日本語と英語だけです」
と答えると、
「中国語は話せないの?」
 と返されたり、
「他の言葉はしゃべれないの?」
などと訊かれたりします。
 アフリカ人からすれば、中国人も韓国人も日本人も皆同じにみえます。
 日本語と中国語の区別がつかないのは理解しますが、3年間も上に記したような質問をされ続けるとさすがに「いい加減にしてくれ」と言いたくなってしまいます……。
 たくさんの言葉を話す彼らからしてみると、「隣の国の言葉がなんでわからないの?」という単純な考え方なのだと思います。
 隣国のジンバブエやボツワナの言語は、南アフリカの黒人言語とところどころが一致しているので、「アジア人=中国人」の顔をした私がなんで中国語が話せないのか、彼らにとっては疑問なのでしょう。
 今さら他の言語に挑戦する気分にはなれないですが、中国語を高校・大学時代に選択しておけば良かったかな、と思うことは多々あります。南アフリカでの私と中国人とのつながりはまた別の機会にとりあげます。

 
 さて、南アフリカの国歌を見てみても“虹の国”であることがうかがえます。
 国歌は1番から4番まであり、1番はコーサ語とズールー語による歌詞で、2番はスゥトゥ語、3番はアフリカーンス語、そして4番が英語による歌詞となっています。
 この国歌は南アフリカ国民にとっても愛されています。式典や各種試合といった公式行事の際にはなくてはならないもので、国民は皆、誇りをもってこの国歌を斉唱します。
 1997年に大統領令としてネルソン・マンデラが制定し、歴史的には新しい国歌ですが、民族の曲を編曲してつくられており、南アフリカの民族和解・協調政策を象徴するような国歌なのです。
 この国歌は6月から開催されるFIFAワールドカップの開会式の際にも流れますから、ぜひ注目していてください。外国人の人たちにもぜひ歌えるようになってほしいと、国歌の歌詞カードをヨハネスブルグの空港で配布し始めた自治体の姿も見られます。もちろん、私も歌えますよv
 下にリンクを貼りましたので、皆さん、ぜひ一度聞いてみてください。
   「南アフリカ国歌」 http://www.southafrica.info/about/history/anthem.htm

 

 
 第1回目の記事で、最後に紹介するのは国旗です。
 
 南アフリカ国旗                                                                           現在の南アフリカの国旗は1994年4月27日、アパルトヘイト撤廃後、初めての民主選挙が行われた後に定められました。

 

 

 

 

 

 国旗の中に使われている色はさまざまな事柄の象徴です。整理してみましょう。
   赤は「過去の対立の中で流された血」
   青は「空と2つの海」
   緑は「南アフリカで欠かせない農場と自然」
   金は「南アフリカで産出される金に代表される天然資源」
   黒は「南アフリカの黒人の国民」と「他のアフリカ諸国とのつながり」
   白は「南アフリカの白人の国民」と「平和」

 

 南アフリカ国旗は、紋章や模様が入っていない国旗の中で、唯一、6色のカラーを使用している国旗なのです。それゆえ「レインボーフラッグ」と呼ばれています。“虹の国”の“虹の旗”ということになります。

 

 国歌同様に南アフリカ国民はこの国旗をとても愛していて、国旗をあしらったデザインのお土産はどこに行っても目にします。

 

 日本の国を色で例えると何色でしょうか? 日の丸の「赤」でしょうか? サムライブルーの「青」でしょうか?
 南アフリカを色で例えると…。
 やはり1色で例えるのは無理がありますね。
 いろんな人種・言語が存在する南アフリカは日本とはまた違う魅力にあふれる国です。
 みなさんにもぜひ興味を持っていただきたいです☆

 
 それでは また次回まで。サラガーシェ(ズールー語でさよならstay well)

 

 

編集部より

 宮崎かおりさんに訊いてみたい南アフリカ共和国に関する質問を受け付けます。

 匿名でも構いません。コメント欄にお書き込みください。

ひろなか志づこの随筆「ふむるす・るぷるす」の第1回目「テクノ。」

2月 15th, 2010

 新連載2人目。
 第3回生の弘中志津子さん(現在は鈴木志津子さん)の登場です。

 連載のタイトルをお願いしましたら、ひろなかさんからのご指定は「ふむるす・るぷるす」でした。
 あるものの学名だそうで、「言葉の響とかリズムがいいな~」と思われて決められたそうです。なかなか凝り性な方です。
なんの学名なのかは読者のみなさんがお調べください。彼女の大好きなものが判明します。

 文末に、デザイナーである彼女が描いたイラストが2点。
 今後、毎回ではないかもしれませんが、ひろなかさんが描く、どこかなつかしくて、やさしくて、あたたかい作品をあわせてご鑑賞ください。

 それでは、ひろなか志づこさんによる連載随筆「ふむるす・るぷるす」。その第1回目「テクノ。」、お読みください。

 

 

 高校1年生の夏、長崎より越してまいりました。
 長崎では「嫁にするならここ出身」と言われるほどの、カトリックお嬢様学校に在籍してました。
 校舎は深い茶色の重厚な木造。学校全体から「伝統」の香りが漂っていました。

 

 そんな場所から引っ越してきた私は、当時YMOに心酔中。
 千葉に来て、初めて見た稲高の校舎は、白塗りで、高床式で、シンプルなラインで、無機質。
 赤い壁面の図書室も独特に、どこぞの研究所の如し。
 その上、制服はグレーのスカートに紺のブレザー。
 九州から出てきたばかりの私は「テクノだ!」と感動し、ここへの編入を決めてしまった次第です。

 

 まあ、当時、最先端建築っぽいデザインの校舎の内側は意外にスカスカで、ベニヤの白壁には、あちこちにボッコリと穴や窪みがありました。
 カッコいいはずの高床式は、地盤沈下に備えて~だと言うし(←当時そんなウワサがマコトシヤカに流れていたものです)。

 

 新鮮に感じられた制服のテクノ色は、実はかなりの膨張色で、パンパンだったワタシのカラダをますます大きくしてくれましたっけ。(涙)

 

「INAGE BAG」……。今の生徒さんはお持ちになっていないようですね。
「adidas」風(パクリ?)に濃紺で「INAGE」だか「inage」だかとプリントされた白いスポーツバッグ。
「学生カバンだと潰してカッコつけるから、スポーツバッグにした」というエピソードを聞いたことがありましたが、カッコつける人はどんなバッグになっても、せっせと潰すんですね。
 バッグの下角にヒモか細い針金を通して広がらないように細工してましたもん。
 登校中のバスの中で遭遇した生活指導の先生からその針金を切られてしまい、無様になったバッグを持ってバスを降りる……なんてことも(それも、私の友達だったりして……)。
 今思うに、当時の先生方は熱かったようで。

 

 そういえば……。
 その頃直接にお世話になった先生方は、多分、今の私よりもお若いと思われます。
 自分の子ども一人の勉強をみてやるだけでもクラクラするのに、高校生(15~18歳)の大きな子どもを指導したり、40人以上も一括して勉強を教えておられたなんて。
 職業とは申せ、本当にすごいことだと、現在痛感しています。
 私の担任の先生、授業を担当してくださった先生、この場を借りて深く御礼申し上げます。

 

 さて、現在の私ですが、家事などをしながら、自宅でデザインやら編集などの仕事をしています。
 デザイン学校に通っただけで、その後、全く異業種に勤めた私ですが、不思議なご縁が絡み絡み、そのご縁に助けられて、現在に至っております。ささやかながら、若かりし頃の夢が叶ったってことかしらん。

 

 高校時代の自分が嫌いで、母校とは全く関わりを持っていなかったのですが、某巨大SNSの稲高コミュに、気まぐれで登録したことをきっかけに、一昨年末から同期・同窓生とお目にかかる機会がスコブル増えています。
「30周年同窓会」参加は、そんな私の集大成かも。
 このブログを通じて、今年新たに、どんな出逢い、どんな係わり合いがあるか、大変楽しみにしております。

 

 最後に僭越ながら2枚の絵を。
 1枚は、昨秋の同窓会で撮影した写真を絵にしたものです。全員3回生です。
 もう1枚は、それを25年前に差し替えて描きました。
 当時はみんなそれぞれのグループにいて、一緒に一枚のフレームに納まるなんて想いもよりませなんだ。ご縁とは本当に面白いものです。

 では、今日はこれにて。

2009

2009

1984

1984

 

 

執筆者紹介
 弘中志津子(現姓・鈴木志津子)
 第3回生。グラフィックデザイナー。編集者。
 高校1年生の夏休みに編入試験を受験。
 無事合格して2学期より稲毛高校生に。
 担任の先生は川崎健一先生。
 ドラム志望で「管弦楽部」に入部。パーカッションを担当。
 2年生の時の担任は大場利雄先生。
 文化祭に向けて、有志の演劇集団に参加。
 裏方として舞台美術らしき担当となる。
 3年生の時の担任は加藤正登先生。
 卒業を控えた11月になって進路希望が二転三転し加藤先生に激怒された思い出…。
 グラフィックデザインを学ぶため都内の美術専門学校へ進学。
 2年後、写真加工会社に就職。
 暗室作業に耐えられずホテル業へ転身。
 結婚するまでホテル業に従事した。
 専業主婦としてしばらく生活していたが、
 子どもの保護者会活動をきっかけに、
 そこでの出会いからデザインの仕事を本格的に開始する。平成14年頃です。
 現在、自宅で、編集やデザインの仕事にひっそりとたずさわっています。

宮川文吾の「笑える話・笑えない話」第1話

2月 13th, 2010
ライブ会場にて。セット組みを開始する前にスタッフに挨拶し説明している宮川文吾さん

ライブ会場にて。セット組みを開始する前にスタッフに挨拶し説明している宮川文吾さん

今日から始まる新連載。
4人の同窓生たちが、思い思いにメッセージを発信します。
オープニングは、第12回生で、国際教養科第1回生である、宮川文吾さん。
それでは、「宮川文吾の『笑える話・笑えない話』第1話」のはーじまりぃ、はーじまりぃ。

 

 

 

稲毛高校同窓会の皆様
稲毛高校在学中の皆様
関係者の皆様
通りすがりの皆様

 

 はじめまして。こんにちは。第12回生で国際教養科第1回生の宮川文吾と申します。
 今回、縁があって同窓会活性化プロジェクトのお手伝いをさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 さて先日、恐らくキチンとしたのは卒業以来ぶりに、稲毛高校の中を青木正寿教頭先生にご案内いただいて見学してまいりました。
 あの場を、あの廊下を、20年前には、まだおっさんではなかった自分が、走り・・・歩き回っていたかと思うと懐かしさでいっぱいでございました。

 
 なんでも、すでに稲毛高校の卒業生は1万人以上いるのだとか。
 でも、先日の30周年総会には200人程しか参加していなかったとか。私はといえば、案内状すら送られてきておりませんでした。卒業後、転々としていますからね。しかたがないのかもしれないですが、そんな方もたくさんいらっしゃると思いますので、どうしたらよいのかじっくり考えて同窓会活性化プロジェクトを進めていきたいと思います。

 
 国際教養科も、今年、創設20年を迎えるということで、何かしたいですね。教養科同窓生の皆様、どうぞご連絡くださいませ。
 教養科に限らず、せっかくお誘いいただいた縁でございますので、母校のためにも、自分をご紹介いただいた恩師のためにも、何か盛り上がっていきたいと思います!

 

 

 ……盛り上がるといえば、今年はサッカーワールドカップの年ですね。
 思い起こせば8年前。日本で開催されていたW杯。西葛西の駅前で、居酒屋から出ると乗用車が赤々と燃えていて、若者たちが大はしゃぎしていたのを思い出します……。サムライブルーのユニフォームを着た人々が町に溢れ、フェイスペイントもはやってましたね。顔に日の丸とか書いちゃう、あれです。

 
 W杯中に近所の老人、戸塚三郎さんから(あ、実名出しちゃった)、
「宮川くん、サッカーがたくさん日本に来て(←この部分もちょっとおかしい)、彫り師はまた日の目を見るようになったんだねぇ……」
 と、声をかけられちゃったのも良い思い出です。
 いやいや、三郎さん。フェイスペイントは、入れ墨ちがうから。顔面に、日の丸の入れ墨なんか入れちゃダメです。

 

 

 家の本棚に、懐かしの『キャプテン翼』が、大人になったバージョンのマンガが並んでいるのを見ると、サッカー少年だった頃を思い出します(注:小学校4年生時代には学校のサッカークラブに入っていたらしいです。世間では、これくらいで、サッカー少年とは言いません)。
 お!? ひらめいた。W杯の2010年流行語大賞に、この言葉をノミネートしてみせよう。

 
 キャプテン翼といえば、もちろん、

「なにィ!」

 でしょう。

 
 普段自分が原稿作ってて、パソコン上にエラーが出たら「なにィ!」。
 スタッフが出してくれたお茶を飲んで熱かったら「なにィ!」。
 会社で和気藹々としゃべっていたら携帯が鳴って「宮川さん、今日の会議、欠席ですか?」と、すっかり忘れていた予定を聞かされれば「なにィ!」。
 ノリノリで携わった番組の視聴率が目標まで到達していない報告を受ければ「なにィ!」
 タンスの角で足の小指をぶつけたら「なにィ!」
 「宮川さーん」と呼ばれれば「なにィ!」
 ……などなど。

 
 ちなみに、初代キャプテン翼で誰が一番「なにィ!」を使っているのか調べましたところ、ぶっちぎりで日向小次郎でした。73なにィ。
 次が、石崎了の58なにィ。
 3位が次藤くんの26なにィですから、上位2名は、貢献度大ですね。
 なにィ普及の、今年の個人目標は、80なにィとしたいと思います。

 

 

 ……おっと、あやうく“なにィブログ”になるところだった。同窓会ブログだった。
「宮川さーん。どうやら、このブログ、月に2回くらい書かなきゃいけないらしいですよー」
「なにィ!」(←今年初なにィとなっております)
 ちっとも国際色のない国際教養科第1回生で、すみません……。

 

執筆者紹介
 宮川 文吾(みやがわ ぶんご)
 1974年11月10日生まれ。
 演出家。脚本家。
 吉本興業「よしもとクリエイティブカレッジ」2期生
 主に音楽アーティストのコンサートステージ演出を担当。毎年全国ツアーで忙しい。
 フジテレビ「お台場冒険王『ウォーターボーイズショー』」演出プロデューサー。他イベントも多数手がける。
 ACC CMコンクール「ラジオCM脚本部門大賞」受賞をはじめ、数々の舞台・CMの脚本において脚本賞を受賞。
 代表作には、大塚製薬「ポカリスエット」(ラジオCM)、「ポカリスエットステビア」(ラジオCM)など。